86 エイティシックス 第8話「行こう」Let's Go

前話までを見直していて今更気付いた事実。
レーナって「86を守る」と言いながらも、実は命も心もずっと86に守られていた事がハッキリしたのが7話だったんですね。
みんな「レーナを絶望させない為」にずっと黙っていた。

86の詳しい説明はWikipediaにお任せするとして。
「行こう」をイメージして写真を撮ってみました。Let's Go! 因みに撮り方はこの本に書いてますので興味がある人はこちらから

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21年春アニメの中でも異色の哲学系アニメ
しつこいですが、おさらいです。
差別の本質は平均を見て個を見ない事
人間は主観でしか生きられない生き物

公式ストーリー #8
シンから告げられたスピアヘッド戦隊の真実。そんなスピアヘッド戦隊に課される「特別偵察任務」。その存在を知ったレーナは、どうにかして任務を止めるべく、助力を求めにアネットのもとへと向かうが、「自分にできることは何もない」と一蹴されてしまう。なおも食って掛かるレーナに、ついに怒りを露わにしたアネットは、かつて隣人であった「とある一家」と、〈レイドデバイス〉の真実について語り始めるのだった。

過去記事はこちらから。

さて置いて。
最後までついていくぜ、我らが死神
で始まる日常回。

前回でスピアヘッド隊の死生観がハッキリしてきましたね。
明日死ぬからって今日首括る間抜けが居るかよ。
死刑台に登るのは決まってても、登り方は選べるだろって、そういう話だ。
俺たちは選んで、決めた。あとはその通り、生き延びるだけだ。
何を選んだかって言うと在り方です。
それが戦う理由つまり生きる理由なんです。
何故かと言うと「他人から強制されて明日死ぬかもしれない戦場」で生きているから。つまり戦う事が生きる事なんです。
でもね。考えてみて下さい。
人間いつか死ぬんですよ。早いか遅いかの違いだけで。
ただ、死が身近にあるか無いかだけの差です。
だから、実は自分達も一緒です。他人事ではない。
そして、スピアヘッド隊の人達は在り方を選んだ、というだけです。
因みに。これ自由という話でもあります。
これが自由です。私達も何も変わりません。
違うのは選択肢の数だけです。


そして今回は合理化の話でした。
アルバ側の視点で考えてみましょう。因みにスピアヘッド隊の合理化は死生観で説明済みです。
レオン・フェスティンガーは
人間は合理的な生き物ではない。合理化する生き物だ。
と言いました。
これはどういう事かと言うと、認知的不協和を起こした場合、人間は現実は変えられないので認知の方を変えるという事です。
まだ分かり難いですね。
冤罪を例に上げましょう。
検察官になるには、司法試験と実務経験という非常に厳しい「入会儀礼」がありますよね。 そして、もし判断ミスがあれば、「あんなに難しい条件をクリアして検察官になったのに、ミスしてしまった」という認知的不協和が発生します。 『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2016年)の著者マシュー・サイド氏によると、「エリートほど自分の失敗を認められない」のだそう。 冤罪は、検察官による自己正当化や保身の結果とのことです。 認知的不協和を解消するため、自分のミスをなかったことにしてしまうというわけですね。
もっと簡単に言うと
過去は変えられる
という事です。
過去は変えられない、と思いますか?
では問題です。
過去って、何処に存在しますか?
頭の中ですよね。若しくは紙とか動画とか。その他もろもろ。
同じものを見て、みんな同じ判断をしますか?
そして、自分の事を考えてみても、異なる時間軸で同じものを見て、同じ判断をしますか?
本当に?

「過去は認知の中に存在する」と考えると、過去なんて不都合があれば、幾らでも改ざん可能なんですよね。

実はこれ、皆さんも一緒です。
例えばこれ。
アルバは有色人種を86として「人間ではない」と定義しました。だから、86のキャラは「DESTROYED(壊れた)」と表記されています。人間だったら多分「FALLEN」と表記されます。
これに対して非人道的、と感じているでしょう多分きっと。
でもね。
それを受けれいている状態をどう説明しますか?
その状態って
アルバと一緒
という事だと思いませんか?
セオトに言わせるとこうなります。
あんたにしてみればエイティシックスの一匹二匹、どう死のうが家に帰ったらすっかり忘れて夕食楽しめる程度の話だろ?しおらしい声作って、空々しいんだよ!
カイエにせよダイヤにせよ誰にせよ、死んだ回を見て「ショックを受けた」とか「言葉にできない」とか言うけど、ゆっくり休んで朝起きたらもう忘れている程度の話なんです。 これが身近な人だったらどうでしょうか?
つまり、セオトに言わせれば聖女ごっこのお付き合いと言う事です。

と言われると、一生懸命違うと言う理由を考えだしますよね。多分。
そして過去を改ざんし始めます。自分は正しいと。
でも大丈夫。みんなそうなんです。そもそも論、人間って合理的じゃないんですよ。


因みに。
レーナはこの事実に第3話で気がつきます。そして第4話で乗り越えようとします。
ココで問題です。
レーナは、どうやって合理化したんでしょうか?
ちゃんと描かれていないので何とも言えませんが、基本的に
自己否定
だと思います。
そもそも自分なんて、言う程大事な存在ですかね?必死になって守る程の何かがありますかね?
これ自己肯定感が高いとか低いとかの話では無いです。
そもそも自分なんて存在しているんですかね?という話です。
ただ、4話で自己否定しているように見えないので、もしかしたら違う合理化をしたのかもしれない。
そして大事な事ですが、そういうのって行動に現れるんですよ。
名前を聞くから始まり、似顔絵を描いて、死んだ人を箱に入れて。
簡単に言うと口だけで行動に現れていない人って本当はそんな事思っちゃいないんですよね。
因みにこれ、他人に使うより自分に使うのが吉です。何故なら他人は変えられないので。

という訳で本題へ。
ではアルバはどう合理化したんでしょうか?

差別は良くないので、個々のケースで考えてみましょう。

アネットの場合
一言でいうと
仕方が無い
です。
結論ありき、です。自分はそんなに非道な人間ではないという結論があって、一生懸命その理屈を作っている。
そういう合理化を進めてきていて、今でもそうしている。
だからレーナが気に入らないんですよね。
そう在れなかった過去が目の前にいるから。
そして、過去を言い訳にしているだけ、ですけどね。本来的には変わる気が無いです。
だって、自分を否定するの、大変じゃん。


ジェローム小父様の場合
一言でいうと
国益を損なう
です。
自由や平等など早すぎたのだよ、レーナ。我々人類には、おそらく、永遠に。
これはなんだろ、軍人、という合理化なのですかね。そういう在り方を決めた、という事でしょうか。
因みに民主主義の崩壊はプラトンが2400年前に予言しています。そして正に今の日本がそういう状態、だと思われます。
プラトンは「自由を追い求め過ぎた先に民主主義の崩壊がある」と言いました。
この場合の自由って責任が無いんですよね。
では、プラトンは何と言ったのかというと。
民主主義が独裁政治へ転落する道とは 2400年前に指摘されていたシナリオ
民衆指導者は、『雄蜂族』と呼ぶならず者たちの間から現れる。
プラトンは、政治体制の変化を語るとき、民主制に移行する前には、金持ちが支配する『寡頭制』があると説明しています。
寡頭制は現代で言えば、ブルジョア社会のことですが、そんな寡頭制のもとでは貧富の格差を背景に、無為徒食のならず者たちのたぐいが生まれます。
彼らのことを、『雄蜂族』と呼ぶのです。彼らは怠惰と放縦の産物であり、零落したり悪事に走ったりします。
その大多数は自然界の雄バチと同様に、毒針は持たず、大したことはできません。
しかし、ときに才覚があり、大胆で、毒針を持つ『雄蜂』が現れ、針のない『雄蜂』たちを従えるのです。
プラトンは、この「雄蜂族」が甘い言葉やエサで民衆全体を侵犯して、結果として民主主義が崩壊すると言っています。
ココで言う民衆に、アネットは含まれます。
民衆の階層は最も多数を占め、いったん結集されると、最強の勢力になります。
しかし、蜜の分け前にあずかるのでなければ、あまり集まろうとはしない。
そこで、先頭に立つ指導者たちは、持てる人々から財産を取り上げ、その大部分は自分で着服しながら、残りを民衆に分配するというのです。
つまり、よく信じられているように、指導者はカリスマだけで民衆に担ぎ上げられるのではなく、そこにはいつも『甘い蜜』がある、ということです。
たとえば、ヒトラーのナチスがユダヤ人を徹底的に収奪し、多くの人がそこから利益を得たことが思い起こされます
そしてプラトンは、こう続けます。
そうして権力を握った「独裁者」は、初めの何日かは誰にでも優しくほほ笑みかけて、自分が「独裁者」であることを否定し、私的にも公的にもたくさんのことを約束する。
けれど、その後は絶えず何らかの戦争を引き起こす。それは民衆が指導者を必要とする状態におくためなのだという。
そして、有能な人材を粛清するようになる。
ジェローム小父様の台詞はこの事象を簡潔に述べてます。
己の利と欲の為だけにその聖女マグノリアを処刑した、下劣な愚民どもの国家に何が期待できると言うのか!

さて、現代日本の民主主義は、自由、平等、公平の名の元に、資本主義社会を形成しています。
「雄蜂」はどんな人でしょうか?どうやったら、その人が「雄蜂」なのかどうなのか判断出来るでしょうか。
大きな言葉(命とか子供とか)を使っているかどうかでは見分けは非常に難しいです。何故なら何を軸にして言っているのか分からないので。
例えは、お金が全てでは無い。
この言葉、その人の背景によって意味が変わります。 ルサンチマンを貯めこんだ人が言った場合。そしてその人にお金を握らせた場合。通常、碌でもない事が起こります。
そしてその人の背景って、分からないんですよね、基本。人間は主観でしか生きられない生き物なのですから。
基本、どんな人も言葉って着飾るんですよね。まるで聖女マグノリアの名前で着飾ったように。自由、平等、公平、弱者救済って。
基本的にはその人の行動を見る事です。レーナの様に、その人の行動に出ますから。
例えば「貧富の差は良くない」から「金持ちから奪う」というのは、実はナチスと同じことをやろう、と言っています。
因みにその時の合理化の仕方は、例えば「金持ちは悪い事をして稼いだに違いない。だから奪っても問題ない」です。 もしくは「金持ちが弱者を救済するのは当たり前」だ、です。
「貧富の差は良くない」から「自分が稼いでばら撒く」だと違います。そしてそれを本当にやっているのかどうか?という事です。
相手が悪人なら悪を働いても良いという理屈はありませんよね?また強者が弱者を救済する義務を負っている訳ではありません。 例えば自分が弱者だとして、より弱者を救済する為にお金を配りますか?その為に税率を上げられたらどう思いますか? 更に言うなら、アフリカの食べられない人達の為に自分の食料を配りますか? 世界の中でみれば、経済的には日本は恵まれている側の国です。幸福と言う意味では下位ですが、そうなると弱者って何さ?という話になりますね。
個人的には「貧富の差が良くない」なら「貧困層が金を稼ぐ手助けをする」というのが正解だと思います。
何故なら、バラマキは弱者が弱者のママでいた方が都合が良い世界になってしまうので、弱者は弱者のままでいた方が都合がよくなってしまう。
それって弱者は常に自分が弱者だと主張し続ける結果となり、それは全く何も救済していない、と感じるからです。本来、人は金の為に働いているのではなく、結果として金が集まるのですから
ただ、この辺は資本主義の限界かな、と思います。じゃあ次は何?と言われると難しいですが。。。
ただ一つ確実に言えるのは、現在日本は、生によって人を支配している(フーコーの言うパノプティコン)という事であり、それが当たり前だと思っている事。
「命を守る」系の言葉(例えば政治家の言う「国民の命と生活を守る」という言葉)に違和感を感じないといけない。
何故ならそれは、自身の命を他者に預けているという状態に他ならないから。
一度
国家が国民の命を守らなくなった時(86が全滅した時)私達はどうするのですか?
と問いかけてみて下さい。



因みに合理化ってやつ、別に悪い事じゃないんですよ。
使い方によって、良かったり悪かったりするだけです。
例えば、ホロコーストって、どうやって実現したかと言うと、徹底的に責任を分解し、他人のせいに出来るようにして、実現しました。
つまり自分は悪くないって、合理化出来る環境がそろったので実現した。
逆に、そうじゃない環境がそろえば、そうはならない。
これを証明したのがミルグラムの服従実験。
誰か一人が「それは間違っている」「我々に責任がある」と言えば、止まる可能性があるんですよ。
つまり、責任に対する捉え方次第、という事です。
責任って、過去にしか発生しないと思いますか?それとも未来?責任と責任感の違いは何?とか。
そういう意味だと「責任感が無い」という日本語、意味が分からないですよね。 そもそも責任感って、自分の中から現れるモノであって、他人に言われるものじゃない。
日本語の構造で責任っていうと「切腹」とか「死してお詫び」とか、そういうイメージなんですよね。責任とれるのか、とか。だからネガティブな印象が非常に強い。
ネガティブなモノに対しては、人間って防御的な姿勢を取る事が多いんですよね。
ワクチンなんか良い例です。全体の0.01%の副作用を極端に怖がる、とか。その0.01%が自分になったらどうしようか、とか。失う事に目を向けると消極的になる。
逆にポジティブな事柄だと、そうでもない。
宝くじが良い例です。かけたお金に無いする戻りって、実は期待値1/10です。払ったお金の殆どは1/10になります。でも得る方に目を向けてるから、積極的になる。
これはストロースの言う構造の問題であって、英語圏だと責任という言葉の意味合いが違う。
責任って、実は物凄くポジティブな現象なんですよ。言い換えるなら意志なんです。
過去と決別して未来を見る、という意志なんです。こう在りたい、こう成りたい、という意志。そこから出てきているんです。
ライデンの台詞で言うと、
俺たちは選んで、決めた。あとはその通り、生き延びるだけだ。
これが責任。だから選んで決める自由が必要なんです。
自由とは、
好き勝手やって良い、ではなく、責任を持つ事
なんです。
在り方を選ぶのは個々人の自由。だから、それに責任を持つ。
そう考えると、実は自由なんてその辺に幾らでも転がっているんです。

シンは言います。
自分が行こうと思っていたところまで、行こうと思った道を辿っていけるようになる

これを自由ではないと否定するのは傲慢且つ非常に暴力的な行為です。
何故なら他人は変えられないのであれば他人が自分を変える事は出来ないので。

行こう

つまり。
シンのこの言葉の意味は、そういう事です。

最後に。サンマリノ共和国の国是を思い出して下さい。
さて、これらの意味、本当に分かっているか、問いかけてみて下さい。そして今までのエイティシックスで何処まで語られているか、想像してみて下さい。
  1. 自由
  2. 平等
  3. 博愛
  4. 正義
  5. 高潔

追伸
だからDESTROYED表記やめろやって。
デストロイ表記に何の声も上げずそのまま流している状態って、アルバと何か違いますかね?
虚構と現実は違うと言うならば、では虚構とは何か?現実とは何か?を答えられるんでしょうか?
そもそもTwitterやBlogやTVやラジオやハタマタその他諸々、私たちが観測していない人々が現実だと、虚構ではないと、どうやって証明するんでしょうか?
これを読んでいる人も、自分から見たら、実在しているかどうか何て分からない。
実在って何だろう?他者の存在をどう証明するんだろうか?
更に言うなら、私たちはそもそも、現実にしか声を上げてはいけないのだろうか?
と言うか、多分、そういう運動が起こる事を作者は期待していると思うのですが、どうだろうか?
試しに
#DESTROYED表記やめろや
というハッシュタグを流行らせてみよう!(提案)

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