86 エイティシックス 第6話「最後まで」Through to the End

86の詳しい説明はWikipediaにお任せするとして。
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21年春アニメの中でも異色の哲学系アニメ

「顔は知らない。思いは知っている。」
~離れていても、心は繋がっている~

「人権とは何か?」を問い続けているこのアニメもとうとう第6話まできました。
折り返し地点?地味に原作には無かったお話、ですかね。
公式ストーリー #6
強い日差しが降り注ぐ夏の日。いつものように戦闘に向かっていたスピアヘッド戦隊は、とある場所を通りかかる。 そこはかつて彼らがスピアヘッド戦隊へと配属された直後、桜の咲く季節に皆で花見をした場所だった。 それぞれ別の部隊からこの地へと集められた少年少女たち。 気になる相手の話で盛り上がり、流れ星を見つけてはしゃいでいた、僅か四か月前のレギオンの襲撃がなかった夜。 確かにそこに在った仲間と共に、つかの間の宴を楽しんでいたことを、隊員たちは懐かしく思い出すのだった。

過去記事はこちらから。

チョロインはさて置いて。
兄さん
で始まる、お花見会。
兄さんとシンのマークが分かった回でしたね。あと、ダイヤとレッカの死のシーンが描かれてました。原作には無かった。


地味に
スピアヘッド隊の死生観
が垣間見られる回でしたね。
これからはそっちがメインになるのかな、と思います。

印象的な台詞を上げると。
減らなくなったのは、クジョーの黒板の数字だけ。
遅いか早かの違いだけだ。
これが現実で。そんな中で。
笑えなくなったら負け
と言う訳です。
因みに、クジョーの黒板の数字が減らないのは、クジョーの生きた証なのかもしれない。
そんな中で死神が人気な理由は何でしょうか?いつかのシンの台詞です。
生き残った奴が、行きつく所まで、全員を連れて行こう
これの意味が、少しずつ描かれてきてます。
シンのコードネームは「UnderTaker」。和訳すると「葬儀屋、引受人、請負人、企業家」ですが、葬儀屋か引受人、請負人、が適切でしょう。彼のマークからすると「葬儀屋」が最も適切かもしれません。
そして。レイの剣からスコップに変えた理由。そこにもヒントがありそうです。
でも、それだけでは無い。第4話で「それもあります」と本人が言ってますので。

今までで、差別の本質は平均を見て個を見ない事、だと書きました。
それになぞらえ、個を考える為に、今まで語られてきた彼らの背景を考えて見ましょう
第3話のクレナの台詞。
明日死んじゃうかもしれないのに!
同じく第3話のセオトの台詞。
僕達が望んで戦ってるとでも思ってるのか?あんたたちが、閉じ込めて!戦えって強制して!この九年何百万人も死なせてるんだろ!?
少なくとも、スピアヘッドの人々は「他人から強制されて明日死ぬかもしれない戦場」で、毎日を楽しく生活しているように見えますよね。
それって、どういう心情なのでしょうか?

でもその前に。
クロード・レヴィ=ストロースという、構造主義を打ち立てて、サルトルをイジメた人がいます。所謂ポストモダニズム。
ストロースの書いた野生の思考は「西洋の自民族中心主義に対する自己批判の書」と言われています。「未開社会」と言う、西洋の自分達が偉い的な主義に石を投げ入れた本。
つまり、レーナとスピアヘッドでは、ストロースの言う所の構造が違うんです。
同じ言葉を使っていても、その言葉の背景が全く違うんです。
だから、死生観も私たちと違う。当たり前だけど。
そして、それのどっちが良いとか悪いとかそんなもの無いんです。ただ違うだけ。
西洋が
他の社会を「未開」だと言って「成長させてあげよう」というのは「傲慢」だ
と、ストロースは言いました。
それを踏まえ、第2話でのレーナの台詞。
我々のように贅沢も娯楽も知らず、無邪気に笑う事もありません。
彼らを孤独な存在にしてはいけません。

これ、ストロースの言う所の「傲慢」 なんですよね。

人間は主観でしか生きられない生き物です。自分の中にその経験が無ければ、相手の事なんて理解出来ません。
では。彼らに近づく為に、我々の環境で想像してみましょう。

「明日死ぬかもしれない」は変わらないでしょう。
戦場ではないですが、何らかの理由で明日死ぬかもしれません。認識していないだけで。この認識の差はデカいですが、人は必ず何時かは死ぬ。ただそう思っていないだけです。
早いか遅いかの差はあれ、何時か死にます。

「他人から強制された」と言うのはどうでしょうか?
構造で考えて見て下さい。生まれてから今まで、全てを自分で決めて来たんでしょうか?仕事は?学校は?勉強は?「自分で選んだ」と思い込んでいるだけでは無いでしょうか?
注意点として「自分の思い通りにならない事を自分で選んでいない」という合理化は可能です。

そう考えた時。私たちは86と何か違うでしょうか?
今の環境の中で、スピアヘッドの人々は何を考え、どう生きているのでしょうか?自分の命を他人に押し付けて、生きているのでしょうか?自分の背景に嘆き苦しみ、生きているのでしょうか?
多分ですが、86の中にはそういう人達もいたでしょう。でも、そういう人達が生きて行けるほど生易しい世界ではない。それは今のスピアヘッド隊を見ると分かります。そういう人がいない。みんな死んでしまった。もしくは、生き残っていく内にそうなったのか。
そう考えた時、自分はガンジーの言葉を思い出します。
「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。」
この先、更に語られると思いますが、良かったらちょっとだけ、考えてみてください。


ショーレイ・ノウゼンへの認識
シンとレーナの間で、ショーレイ・ノウゼンへの認識の違いがハッキリと描かれ来ましたね。同じレイを語っているのに、ポジティブとネガティブの両極端の差があります。さて、この差は何でしょうか?
レオン・フェスティンガーは認知的不協和理論で
人間は合理的な生き物ではなく、合理化する生き物である
と言いました。
もの凄く簡単に言うと「人間は自分の好むもののみを抽出し、認識する」という事です。つまり現実と認知が相反した場合、経験は簡単に変えられないので認知の方を変える、という事です。ピンと来ますでしょうか?
レーナの語るレイとシンの語るレイ、全然違うのはこの「認知」です。
つまりお互い、自分にとって都合の良い経験を抽出しレイという人間を語っている、のです。レーナの場合、レイに会ったのは1回のみなので都合が良い悪いはないですが。
余談ですが。認知的不協和って、地味に差別(アンコンシャス・バイアス)に繋がっている時もあります。
この先、多分こんな展開は待っていない筈なので書いちゃうと。
認知的不協和って実は2次大戦で分かった事です。
フーコーとかアーレントとか色々分かって来た事もありますが、その辺もごった煮にして。

20世紀最大の巨悪であるホロコーストは、徹底的に責任の分解を行い、個々人が責任をお互いになすりつけ「自分は悪くない」と合理化する事で実現しました。
アレントはこれを「悪の凡庸さ」と表現しました。ちょっと想像してみて下さい。ホロコーストを行うという事。 どれだけの人間がどれだけの役割を担っていましたか? 集団催眠とか集団洗脳とか、そんな事で実現出来ると思いますか? アレントは巨悪は「一部の限られた凄く悪い人達」が起こしたことではなく、「自分は悪くない」と合理化した「凡庸な人達」が起こした事だと言っているのです。つまり、誰でも巨悪になれる、と言っています。
そしてこの事実は同時に「自分に責任があると思う事により巨悪を断ち切る事が出来る」と言う事も証明しました。(ミルグラムの服従実験)
勘違いして欲しくないのは、「責任」という言葉をネガティブに捉えないで欲しい。日本語の責任と英語の責任は、ニュアンスが違うので。
21世紀は多様性の時代である、と言われています。
では多様性の時代の公平・公正とは何か?(多様化した価値観の中で公正・公平をどう定義するのか?)
自分は「私たちは間違える」であると考えていて、そして「我々の愚かさを赦しあう事」だと考えています。 奇しくも、アレント自体が出来なかった、人間の条件、つまり寛容さ、だと。
端的に言うと、清水博氏はこう表現しています。
自己組織的な生き方とは、互いの違いを受け入れて、互いの存在意義を高めて合いながら共に生きていくこと。 違いを受け入れる時に、感情に多少の波だちが生まれても、共に向かう未来の夢がそれを「おたがいさま」と飲み込んで解消してくれるような開かれた大きな夢を共有すること。
因みにこの認知の差、実はレーナの中でも同じ事が起こっています。
アネットとシンで同じ様にレーナの心配をしてるにも関わらず、反応が違う。
アネットは、シンと同じように、甘いものを用意し、よく眠れる様に安眠グッズをプレゼントしている。シンはモノは送れないので、言葉で。
さて、その差は何なのでしょうか?
これは原作には無い話なので、この先が何を意味するのかは分かりません。ただ単に、チョロインを強調する為に描かれているのかも知れませんが。
ただ、レイを語る時の認知的不協和の差をシン特有の話ではなく、レーナも同じく起こっている、つまり誰にでも起こりうる話だと言っているように見えたのは、買い被りすぎなのだろうか?

因みに。地味に差別に対するレーナの対応が描かれていましたね。
つまりは、こういうやり方もありますよね、という事です。


追伸
だからDESTROYED表記やめろやって。
デストロイ表記に何の声も上げずそのまま流している状態って、アルバと何か違いますかね?
虚構と現実は違うと言うならば、では虚構とは何か?現実とは何か?を答えられるんでしょうか?
そもそもTwitterやBlogやTVやラジオやハタマタその他諸々、私たちが観測していない人々が現実だと、虚構ではないと、どうやって証明するんでしょうか?
これを読んでいる人も、自分から見たら、実在しているかどうか何て分からない。
実在って何だろう?他者の存在をどう証明するんだろうか?
更に言うなら、私たちはそもそも、現実にしか声を上げてはいけないのだろうか?
と言うか、多分、そういう運動が起こる事を作者は期待していると思うのですが、どうだろうか?
試しに
#DESTROYED表記やめろや
というハッシュタグを流行らせてみよう!(提案)

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