86 エイティシックス 第7話「忘れないでいてくれますか?」Will You Remember Me?
ダイヤ君をイメージして写真を取りました。
因みに撮り方はこの本に書いてますので、興味がある人はこちらから。
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86の詳しい説明はWikipediaにお任せするとして。
21年春アニメの中でも異色の哲学系アニメ
誰も取り残さないとは、みんな連れて行くという事
~僕たち私たちのSDGs(持続可能な社会)~
「人権とは何か?」を問い続けているこのアニメも第7話まできました。
公式ストーリー #7
シンとのパラレイドを通して、「黒羊」の声を聞いたレーナ。 管制中にさえパラレイドへの躊躇いや恐れがにじみ出るほど、レギオンに命を刈り取られる瞬間の少年少女たちの断末魔は、レーナの心に影響を及ぼしていた。 依然として厳しい戦況の中、隊員の戦死も続き、残る隊員たちの負担が日々増えていく様子を憂いていたレーナは、いつまでたっても行われない人員補充への早急な対応を直談判するため、カールシュタールのもとへと向かうのだが……。
過去記事はこちらから。
エイティシックス
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さて置いて。
で始まる日常回。
非日常が日常になった場合、日常って何だろうか?
スピアヘッド隊の死生観が段々と明らかになってきました。
「他人から強制されて明日死ぬかもしれない戦場」という背景で毎日をどう生きているのか?
この2つが大事なキーワードになっています。
ではスピアヘッド隊の死生観について考えて見ます。
基本的には
これになぞらえて、自分に当てはめて考えて見ましょう。
想像してみて下さい。医者に余命宣告をされた時を。
どうでしょうか?想像出来ましたか?多分難しいと思います。
原理原則、人間は自分が経験していない事は想像なんて出来ないので仕方が無い。
哲学から考えて見ましょう。
ハイデガーという有名な人がいます。『存在と時間』を書いた人です。
さて、ハイデガーさん。
死とは、(今の所)回避できない可能性であり、他人に押し付ける事の出来ない可能性、なんですよ。と。
そして死を強く意識するという事は
詳しくは「存在と時間」を読んでね、と言いたいのですが、これ未完なんです。なので、こちらを読んだ方が分かり良いかも、と思います。Unlimitedだし。ハイデガーだけじゃなくて沢山書いてあるし。
因みにこれ、いわゆるエンディングノートとは全然違う考え方です。自分の死後に迷惑をかけないとかそういう類の話では無い。
死を見つめた時にこれからどう生きようかという話です。
スピアヘッド小隊の人々はハイデガーによれば「本来的な生」に目覚めている状態です。
死を受容し、本来的な生に目覚めているスピアヘッド隊の人々は、今の状態を一言で表現しています。
出来ればいま一度、スペアヘッド隊の人々の姿を見直してみて下さい。
あとセオトのこの台詞がヒントになるかな、と感じています。
じゃあそれは具体的にどんな在り方なの?は、第一話から見直してみて下さい。自分が明日死ぬかもしれない、と思いながら。そうしたら色々と見えてくるかもしれないです。
ただ「あいつと同じ真似はしない」だけでは無いんですよ。絶対に。そんなチャチな感情、ぶっ壊されるような環境なんです。86の生きている世界は。
自分的には、ガンジーの言葉を借りるなら。
そして次に
何を頼まれているかと言うと、
スピアヘッド隊の人々の死生観は死んだら終わりでは無い。死んだ先があるんです。
これ、実は日本でも似た様な話があります。
何かというと、阿弥陀仏。詳しくは本家第37回 阿弥陀仏とはどんな仏様にお任せするとして。
簡単に言えば全人類の救済を祈った仏様です。
最近の似た様な事例で言うなら「誰も取り残さない社会」というヤツです。
では問題です。
それに対して阿弥陀仏はこう言いました。
つまり、自分が一番最後まで残る、と言ったのです。
死神さん「行きつく所まで、全員を連れて行ってくれる」んですね。
だから皆から大人気。ある意味、阿弥陀仏ですね。
ではココで問題です。
死神さんは言います。
つまり。シンのこの言葉の意味は、そういう事です。
因みに。
ココですらまだ到着点ではないです。
何故ならば
死んだらお仕舞いだったら、連れて行くっていうのは何も意味を為さない。これは分かりますよね。
死んだ後でも連れて行くものって、何でしょうか?生きた証?記憶?金属片?お墓?骨?
これは自分の境界線を意識し続けると分かってくるかもしれません。
私が私である為の条件とは、何でしょうか?
例えば、自分の腕は自分ですか?腕が切り取られた場合、どっちが本体ですか?足は?肺は?とドンドンとちぎって行きましょう。
さて、自分の最小単位は何ですか?
逆に、今度はどんどんと大きくして行って見て下さい。自分の範囲を何処まで大きく出来ますか?
アドラーはコレを「共同体感覚」と名付けました。
つまり連れて行くとは、共同体の事を指しています。例えたった一人になっても、それでも共同体、なんですよね。
言葉にすると「仲間」よりは「戦友」というのが近いかもしれませんが、ズバリそのものの丁度良い言葉を知らない。
これは、私という個人を共同体と同一化するのではなく、私は私のまま共同体に所属する感覚と言うか何と言うか、伝わりますかね。
非日常が日常になった場合、日常って何だろうか?
スピアヘッド隊の死生観が段々と明らかになってきました。
「他人から強制されて明日死ぬかもしれない戦場」という背景で毎日をどう生きているのか?
生き残った奴が、行きつく所まで、全員を連れて行こう
UnderTaker「葬儀屋」
この2つが大事なキーワードになっています。
ではスピアヘッド隊の死生観について考えて見ます。
基本的には
差別の本質は平均を見て個を見ない事です。
人間は主観でしか生きられない生き物
これになぞらえて、自分に当てはめて考えて見ましょう。
想像してみて下さい。医者に余命宣告をされた時を。
どうでしょうか?想像出来ましたか?多分難しいと思います。
原理原則、人間は自分が経験していない事は想像なんて出来ないので仕方が無い。
一般的に、死を受け入れるプロセスはそしてこの例で行くと、スピアヘッド隊の方々
1.否認と孤立
2.怒り
3.取り引き
4.抑うつ
5.受容
の5段階と言われています。
因みに我々の殆どが1にも至っていない状態です。多分。
既に「5.受容」の段階にいる
と考えられます。哲学から考えて見ましょう。
ハイデガーという有名な人がいます。『存在と時間』を書いた人です。
さて、ハイデガーさん。
死を自分事と捉えた時、人は自分の本来的な生に目覚める
と言っています。死とは、(今の所)回避できない可能性であり、他人に押し付ける事の出来ない可能性、なんですよ。と。
そして死を強く意識するという事は
死ぬまでにどう生きようか?
という事に目覚めた状態、なんですよ。と。詳しくは「存在と時間」を読んでね、と言いたいのですが、これ未完なんです。なので、こちらを読んだ方が分かり良いかも、と思います。Unlimitedだし。ハイデガーだけじゃなくて沢山書いてあるし。
因みにこれ、いわゆるエンディングノートとは全然違う考え方です。自分の死後に迷惑をかけないとかそういう類の話では無い。
死を見つめた時にこれからどう生きようかという話です。
スピアヘッド小隊の人々はハイデガーによれば「本来的な生」に目覚めている状態です。
例えば極端な例ですが「何かを食べたら死刑」だとします。
その場合、我々は、飢えて死ぬか、食べて死ぬか、の2択を迫られます。
では、その状態でどちらを選びますか?という事ですが、伝わりますか?
死を受容し、本来的な生に目覚めているスピアヘッド隊の人々は、今の状態を一言で表現しています。
笑えなくなったら負けこれは無理して笑うという事ではないです。無理して明るくするという事ではない。心の底から、本当に楽しそうにしている。
出来ればいま一度、スペアヘッド隊の人々の姿を見直してみて下さい。
あとセオトのこの台詞がヒントになるかな、と感じています。
「カイエ、君の死を穢してしまった」つまり「在り方」(being)なんですよね。死ぬまでどういう存在でありたいか、という意志。
じゃあそれは具体的にどんな在り方なの?は、第一話から見直してみて下さい。自分が明日死ぬかもしれない、と思いながら。そうしたら色々と見えてくるかもしれないです。
ただ「あいつと同じ真似はしない」だけでは無いんですよ。絶対に。そんなチャチな感情、ぶっ壊されるような環境なんです。86の生きている世界は。
自分的には、ガンジーの言葉を借りるなら。
「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。」かな、と感じています。
そして次に
「よろしく、死神さん」があります。
何を頼まれているかと言うと、
生き残った奴が、行きつく所まで、全員を連れて行こうなんです。
スピアヘッド隊の人々の死生観は死んだら終わりでは無い。死んだ先があるんです。
これ、実は日本でも似た様な話があります。
何かというと、阿弥陀仏。詳しくは本家第37回 阿弥陀仏とはどんな仏様にお任せするとして。
簡単に言えば全人類の救済を祈った仏様です。
最近の似た様な事例で言うなら「誰も取り残さない社会」というヤツです。
では問題です。
誰も取り残さない社会で一番最後に取り残されるのは誰ですか?
それに対して阿弥陀仏はこう言いました。
自分が一番最後で良い
つまり、自分が一番最後まで残る、と言ったのです。
因みに親鸞さんが「南無阿弥陀仏」を広めた、と言われています。
親鸞さんと言うと他力本願で有名です。 他力本願とは「悪人が救われる」教えです。 善人は救えない。というか、善人こそ救いが必要なのに、悪人にならないと救えない。
この教え、実は現代でもまだ「早すぎる」んですよね。
善悪の判断基準が異なるんです。
善悪は他人じゃなくて本人が決めるんです。
どんなに悪い事をしていても、自分が正しいとか、念仏唱えたからもういいや、という人は善人なんです。
自分で悪い事をしている、それでも辞められない、という人が悪人なんです。
例えば、盗みは悪い事です。でも盗まないと食べられない人がいるとして。
そういう人の中で。
・世の中が悪いから自分がやっている事は仕方が無い、という人は善人
・悪い事だけどやらないと仕方が無い、でも悪い事はしたくない、という人は悪人
なんです。
だから、念仏は「悪人」に対して効く。「南無阿弥陀仏」を一心不乱に唱えると心の平静が取り戻せる、という理屈です。
86で例えるならば。
アルバは善人、レーナは悪人なんです。
分かりますでしょうか?
これ、日本人にはまだまだ早すぎるんですよね、多分。
死神さん「行きつく所まで、全員を連れて行ってくれる」んですね。
だから皆から大人気。ある意味、阿弥陀仏ですね。
ではココで問題です。
死神さんを連れて行ってくれるのは、誰?
死神さんは言います。
忘れないでいてくれますか?
つまり。シンのこの言葉の意味は、そういう事です。
因みに。
ココですらまだ到着点ではないです。
何故ならば
連れて行くって何をですか?
という問いが残っています。死んだらお仕舞いだったら、連れて行くっていうのは何も意味を為さない。これは分かりますよね。
死んだ後でも連れて行くものって、何でしょうか?生きた証?記憶?金属片?お墓?骨?
これは自分の境界線を意識し続けると分かってくるかもしれません。
私が私である為の条件とは、何でしょうか?
例えば、自分の腕は自分ですか?腕が切り取られた場合、どっちが本体ですか?足は?肺は?とドンドンとちぎって行きましょう。
さて、自分の最小単位は何ですか?
逆に、今度はどんどんと大きくして行って見て下さい。自分の範囲を何処まで大きく出来ますか?
アドラーはコレを「共同体感覚」と名付けました。
つまり連れて行くとは、共同体の事を指しています。例えたった一人になっても、それでも共同体、なんですよね。
言葉にすると「仲間」よりは「戦友」というのが近いかもしれませんが、ズバリそのものの丁度良い言葉を知らない。
これは、私という個人を共同体と同一化するのではなく、私は私のまま共同体に所属する感覚と言うか何と言うか、伝わりますかね。
追伸
だからDESTROYED表記やめろやって。デストロイ表記に何の声も上げずそのまま流している状態って、アルバと何か違いますかね?
虚構と現実は違うと言うならば、では虚構とは何か?現実とは何か?を答えられるんでしょうか?
そもそもTwitterやBlogやTVやラジオやハタマタその他諸々、私たちが観測していない人々が現実だと、虚構ではないと、どうやって証明するんでしょうか?
これを読んでいる人も、自分から見たら、実在しているかどうか何て分からない。
実在って何だろう?他者の存在をどう証明するんだろうか?
更に言うなら、私たちはそもそも、現実にしか声を上げてはいけないのだろうか?
と言うか、多分、そういう運動が起こる事を作者は期待していると思うのですが、どうだろうか?
試しに
#DESTROYED表記やめろや
というハッシュタグを流行らせてみよう!(提案)
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