86 エイティシックス 1期前半まとめ(Summary in the first half of one quarter)

86で考える人権シリーズ1期1クールまとめ。
1期前半も終わったのでまとめました。約15,000文字。

そもそも人権って何でしょうか?
この国の人間で人権を分かっている人はごく一部です。裁判官や弁護士ですら分かっていない。ネット上で人権という言葉を使ってる殆どの人は人権について真正面から考えた事はないでしょう。分かったつもりになっているだけで。だってこの国の構造にそもそも人権なんて組み込まれていませんから。
そんな中で、86は人権を真正面から扱っている小説であって、中々に見ごたえがあります。という訳で、自分も86を通して人権に真正面からぶつかって見ました。
人権について考えるきっかけになって貰えれば幸いです。

因みに。「作者の死」(The Death of the Author)と言われています。賛否両論ありますが、テクストとして公開された以上、好き勝手解釈してみました。同様にこの文章も公開した時点で作者は死んでいる事になるんですかね。そういう意味で、世の中は死人で一杯ですね。
フランスの哲学者ロラン・バルトが1967年に発表した文芸評論の論文。バルトはテクストは現在・過去の文化からの引用からなる多元的な「織物」であると表現し、作者の意図を重視する従来の作品論から読者・読書行為へと焦点を移した。

要約

人権を考えるうえで、人間と権利について分離をした。その上で、人間とは何か、権利とは何かを考察した。
次に基本的人権として、平等と自由について考察を行った。
また、SDGsと多様性からこれからの人権について考察した。
これらを踏まえ、最後にこれからの人権についてを記載した。

過去記事はこちらから。

■人権とは何か

 人権とは何か?と言うとWikipediaには「単に人間であるということに基づく普遍的権利の事である」と書かれています。
 因みに日本国憲法では「国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と記載されています。
 つまり、日本人にとっての人権とは「人が生まれながらに持っている権利であり、憲法が国民に保証する基本的人権は誰も侵す事の出来ない永久的な権利」と言っています。
 日本国憲法が人権を保障する対象は「国民」です。つまり国民じゃ無かったら補償対象外になります。
 もう少し言いますと、人間じゃなかったら人権なんて無いんです。
 例えば、犬や猫には人権は無いんです。ましてはカマキリとか松とか岩とかにも人権はないんですよね。現状では。
  だからそれっぽい理屈をつけて「86は人間じゃない」とラベリングをし、それを国が認めたら人権なんて無くなるんです。そして人が死なない戦場が完成した、というのが86で言う9年前のお話です。
 という訳で。
 人権を考えるには「そもそも人間って何?」という点を考えないといけません。

■人間とは何か

 人間とは何か?という問いには色々な角度から検討が必要でしょう。
 例えば生物学的なアプローチだと「遺伝子的に人間であれば人間である」という定義が可能です。
 これはとても分かり易い。
 でも生物学的に人間だとして、基本的人権は「単に人間であるということに基づく普遍的権利」として、自由と平等を定義しているんでしょうか?
 「遺伝子的に人間である」事は人間自体を語っているんでしょうか?という疑問。そしてそれが何故自由と平等に繋がるんでしょうか?別の角度からも見て見ましょう。


・人間とは、虚構を構築し、共有し、分業する生き物
 人類学に学ぶ事も出来ます。7万年前に遡ります。100年前なんてついさっきの次元です。
 ユヴァル・ノア・ハラリ氏。イスラエルの歴史学者です。「サピエンス全史」で一躍有名になりました。
 彼に言わせると「人間とは虚構を構築し、共有し、分業する事によって頂点に立った生き物」です。
 彼の言う虚構とは何でしょうか?例えば神。他にも国家、お金、憲法なんてものも全て虚構です。皆が信じているから成り立っているだけのモノです。
11話で印象的なシーンがありましたね。暴論ですが「教科書も読めなければ只の紙」です。でも罪悪感を感じるカイエ。知識や教科書に価値を認めなければ、その辺の紙と一緒なんですよ。つまり、皆が信じれば「その辺の石ですら、もの凄く価値のあるモノになる」という事です。
 お金は良い例です。あんなもの現代では只の数字です。でも凄く価値がある。何故か?と言うと「長く持つ」からなんですよね。昔々、貨幣は小麦でした。でも小麦って腐りますよね。継続性がないんです。でもお金って継続性があるんです。相続出来るんです。何世紀も、何世代も。だから貨幣は昔は金属だった。現代ではデータ化されたので只の数字と化した。長く持つから、価値がある。そういう虚構を構築して、皆がその価値を共有した。そしてお金を軸に分業して現代に至った。そしてこれからもそれが続くと信じられている。

・人間は主観でしか生きられない生き物
 この人間の虚構を共有し、という特徴ですが、哲学者も同じことを言っています。
 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは「私たちが相手の事を理解出来ると思えるのは、その経験が自分の中にあるからだ」と言っています。つまり自分の中にその経験が無ければ、相手の事なんて理解出来ないんです。と言うか。相手の経験なんて絶対に経験出来ないんです。だって相手になれないので。同じ経験をしたとしても、感じ方が違う。1から10まで全く同じ人生は歩めない。私の人生と貴方の人生は異なるんです。だから勝手に相手を理解した気になっているだけなんです。これは人間の特徴です。ハラリ氏の言う人間の持つ「共有する力」なんですね。

・構造主義、大きな物語
 ストロースの語る構造主義、リオタールの語る大きな物語も似たような事を言っています。
 人間は何時から自己を形成するでしょうか?そもそもどうやって自己を形成するのでしょうか? 「人間は外界との接触から自己を形成する」事が知られています。つまり、外部との接触によって自己を形成するんです。
 じゃあこの構造とか大きな物語って、何処から来ているんでしょうか?それは「虚構を共有する力」から来ています。私達は自分の自由意思で生きていると思っていませんか?よくよく考えると、そもそも外部から自己を形成しているんですから外部からの力が働いているですよね。私たちはこの構造や大きな物語の中で自己を形成しているんです。
 じゃあそれは何処にあるのか?と言うと、実は言葉の中にあります。なにそれと思うかもしれませんが、実は私達は外界を言葉から取り入れています。つまり言葉が無ければ認識なんて出来ないんです。極論、人間は言葉で出来ています。余談ですが、外国語を学ぶ意味は外国人とコミュニケーションを取れるようになる事ではなく、異なる言語体系を学ぶ事によって、異なる構造を学ぶ事にあります。
 例えば同じ日本人だとして。縄文時代の日本人と現代日本人は遺伝子的に同じであるから、理解可能でしょうか?若しくは遺伝子的に別なんでしょうか?そして縄文時代と現代とで、どちらで生きたいですか?恐らく現代だと言うかと思います。何故ならそういう構造で生きているから。なんですね。
 つまり。
 人間はこの共有する力、つまり構造や大きな物語のお陰で、頂点に立った、とハラリ氏は言います。

 構造という話で行くと、86の象徴的なシーンとしては、共和国の国旗の扱いです。86とアルバでは扱いが違うんですよね。これ、構造が全然違うんですよん。真逆なんです。

・人間は合理化する生き物
 心理学者レオン・フェスティンガーによって唱えられた「人間は合理的な生き物では無い。合理化する生き物だ」で有名な認知的不協和。これも人間の特徴です。経験と認知だと、認知の方が簡単に変えられるんです。だから認知を簡単に変えて行くという性質を持っています。
 86の中だと、シンのレイに対する認知的不協和があります。
 シンにとって、レイは自分を恨んでいる人間であり、レーナにとっては弟思いの兄。
 シンは「レイは自分を恨んでいる」という合理化をしています。それが9話の「ごめんな」の一言で認知が変わる。経験を変える事は非常に難しいので、認知の方を変えた。兄の事を覚えていないのではなく、覚えていると都合が悪いから忘れていた。それが一気に開放された。というのが9話。だからそれまでは、レーナがレイを好意的に覚えていたので、その認知を変えたくなかったので、余り兄の話をしなかった。
 非常に簡単に言うならば、過去は認知の中にあるので「過去は変えられる」んですよね。
 後はペンローズ・アンリエッタ。
 シンを見殺しにした、という罪悪感から逃れる為に「自分には何も出来ない」と合理化しました。そして誰にも何も出来ない、という合理化。誰かに何とか出来たとしたら、じゃあ何で自分は出来なかったのか?という罪悪感に苛まれてしまうんですよね。
 共和国、そもそも初めから86を「人間じゃない」って定義したとは思えないんですよね。冷静に考えてみて下さい。ある日突然「86は人間じゃありませんでしたので、そもそも人権を持ってませんでした」と言って、誰が付いていきます?「色付き」という分かり易い差異で差別化して、戦場に送り出して、その結果として「人間じゃない」という合理化をしたんだと思います。9年間の中でそういう構造が一般化するのか、という疑問はありますがそこはさて置いて。
 なので大半のアルバは「人間じゃないから何をやっても良い」という合理化をしてるんだと思います。
 因みに「不正のトライアングル」というのがあります。
 不正は「機会、動機 、正当化」の3つが揃うと行われる、という話です。
 86で言うなら。
 ①機会:アルバが政局を握っていて、法律とかを変える事が出来た。
 ②動機:自分達は戦って死にたくない。
 ③正当性:86は人間じゃない。
 でしょうか。
 そしてカラードを86に追い出し無矢理戦わせた。さてこの行為は正当でしょうか?不正なんですよね。5色旗を掲げる共和国としては。つまり、行為そのものが不正かどうかを決める、という事です。どんな理由であれ、嘘はいけないし、殺人もいけない。(そういう構造で生きているならば)つまり、機会と動機と正当化さえ出来てしまえば、人間誰しも不正を行う、という話です。そしてそれが構造に組み込まれてしまえば、不正は正当化します。 だって人間、誰しも合理化する生き物なんだもの。(合理化自体は悪い事ではないですよ)

・強者になる生き物
 アドラーによれば「人間とは強者になる生き物である」と言います。
 似た様な事はニーチェも言っていますね。ルサンチマンという言葉が有名です。そもそも人間は本質的に強者になろうとする生物で、それを変に拗らせてルサンチマン貯めて可笑しなことになる、という話です。名誉欲とか金銭欲とか色々ありますよね。承認欲求とか。それって実は良い事なんです。それがあって頑張れるから。というか、そもそもそれ人間の持つ力なんです。犬がワンワン言うとか足が速いとかと一緒です。犬に「猫になれ」って言っても仕方がないじゃないですか。人間に「エラ呼吸せよ」って言っても仕方が無いとの同じで。 ただそれを変に拗らせると良い事は無いです、というだけで、欲求自体をプラスの方向に持って行ければ良いだけです。
 例えば。一番になる方法って、2つあります。
 例えばかけっこ。
 1つ目:頑張って練習して足が速くなるようにする。
 2つ目:自分より早い人の足を折る。
 1つ目が正常で、2つ目が拗らせたパターンです。
 もう少し穏便な方法として、足が速い事の価値を貶める、という方法があります。
 簡単に言うと、弱者のままで居る事って、人間としては非常に苦しい状態なんですよね。  そして弱者のままでいる事を合理化する生き物でもある、とても面倒くさい生き物なんです。人間って。

・まとめ
人間とは
 ・虚構を構築し、共有し、分業する生き物
 ・主観でしか生きられない生き物
 ・合理化する生き物
 ・言葉で出来ている生物
 ・強者になる生き物
である。

■権利とは何か

 人権のうち、人については考えました。では権利ってなんでしょうか?
 Wikipediaによると「ある行為を行うことの、正当性の根拠となる能力及び資格」だそうです。因みに。権利の反対語として義務がある、と思われていますが、実はこれ違います。
 これが正だとするならば、義務を負わないと権利はない、という事になります。
 つまり人間である為の権利を獲得する為に義務を果たさないと行けなくなる。
 若しくは国民の義務を果たさないと権利がなくなる、という事になります。
 なので義務と権利はそれぞれ個別に存在します。が、86の世界ではこれが暴走しています。ある意味、現代日本と一緒ですね。
 8話のジェローム小父様の台詞。
 「己の利と欲の為だけにその聖女マグノリアを処刑した、下劣な愚民どもの国家に何が期待できると言うのか!」
 自分の権利を主張し義務を果たさない為に他人の権利を侵害している状態。義務と権利は原理原則、別物です。関係性は無い。しかし、同じくらいに大事なんです。だから、権利を考える時は合わせて義務も考えないといけない。

■基本的人権

 人権って「ただ単に人であるという事だけで、ある行為の正当性の根拠となる能力、資格がある」という事になります。
 では「ある行為」って一体何でしょうか?
 基本的人権が定めているのは「自由」と「平等」です。共和国にはここに「博愛」「正義」「高潔」が追加されています。
 そもそも論、人権とは、本質的に命の話なんです。

■平等⇔差別

 平等って、何でしょうか?何をもって平等って言うのでしょうか?
 反対語を考えると分かり易いかも。86の世界では、平等の反対は差別だと言っています。つまり平等とは差別されない事。
 では差別とは何でしょうか?
 86では「差別の本質は平均を見て個を見ない事」として語られています。その象徴として「本名」と「あだ名」があります。そう考えると、実は現代日本でも差別はそこかしこに沢山あります。これは大きな名前、小さな名前で考えると良いかと。
 例えば、男性、女性。大人、子供。その他にも、金持ち、貧困、都会、田舎。政治家、社会人、会社員などなど。
 その人の属性を語っているつもりでも、それは大きな名前であり、構造の中に含まれている虚構なんですよね。因みに子供って概念が生まれたのは18世紀だと言われています。それまでは大きな人間、小さな人間という、サイズの話だったんです。
 さて。エマニュエル・レヴィナスという「他者」を語った人が居ます。他者とは、顔が見えない人であり、その他者に対しては人間は何処までも冷徹になれる、と。
 じゃあ他者からの脱却の為にはどうしたらよいの?というと、顔を見る、つまりその人を知る事、なんですよね。
 例えばレーナ。
 2話で「86」という大きな言葉で語っています。そして始めはあだ名でしか読んでいない。3話で無自覚な差別に気が付き、4話でそこから脱却。段々と本名で語っていくようになります。それ以外にも、スピアヘッド隊の面々は歴代のハンドラーの似顔絵を描いていて、(それになぞらえた訳では無いでしょうが)レーナも似顔絵を描いています。これは名前だけじゃなくて顔についても言及しているのかな、と感じました。
 構造で考えると、スピアヘッド隊とレーナって、全然違う構造の中で生きています。言葉は一緒だとしても、その背景が全然違う。特にスピアヘッド隊の面々は、少なくとも9年前なので、7歳とか位で86区に連れ去られたと計算出来ます。11話でクレアは「学校に行った事が無い」と言っています。なので、恐らく小学校に上がる前に連れ去られたのだと想像されます。小学校低学年時代から戦争が当たり前の人生を送っていたとして。平和な日本人と同じ言葉を使っていたとして、その背景は想像出来るでしょうか?
 人間とは、主観でしか生きられない生き物です。自分が経験した事のない事は理解出来ない生き物です。戦争が他人事の人間と、戦争が当たり前の人間。さてどうやって理解しますか?
 方法はいくつかありますが、86の世界では2つ語られています。
 1つ目は「自分がその経験をする事。」
 例えば、セオトの戦隊長さん、整備士のアルドレヒトさんが登場しています。
 2つ目は「私とあなたは違う人間です。そこから始めましょう。」
 例えば、レーナ。あなたと言う個人に興味を持って、パラレイドによる音声だけの対話で、あなたを知りましょう、という事です。
 差別とはラベルを張る事で始まりラベルを剥がす事で終わるんですよね。
 ラベルは貼った。次はラベルを剥がす事をしないといけない。つまり差別撤廃運動って、最終的にはラベルを剥がす、つまり言葉を捨てる事にあります。それが真に平等になった、という状態になります。
 そう考えると、真の男女平等って「男性トイレ・女性トイレ」が無くなった状態です、実は。いきなり無くせと言っている訳ではないです。あしからず。

 福沢諭吉の有名な言葉で「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」というのがあります。これ実は理想論じゃなくて、そもそも人間ってそういう生き物なのです。じゃないと「分業」なんて出来ない。人間は、犬がワンワン言うのと同様に、そもそも生まれながらにして平等なんです。
 「そうじゃない」と思うのは「そういう構造の中に生きているから」なんですよね。

・まとめ
  ・平等とは、差別されない事。
  ・差別の本質は平均を見て個を見ない事
  ・人間は他者にはどこまでも冷徹になれる
  ・全ての差別撤廃運動は、ラベルを張る事で始まりラベルを剥がす事で終わる

■自由⇔抑圧

 86では、自由の対義語として抑圧を上げています。
 抑圧ってなんでしょうか?辞書を引くと「欲望・行動などを押さえつけること。」と書かれています。
 では、欲望・行動などを押さえつけられていない人間って、この世に存在するのでしょうか?何もかも全て自分の思う様に出来る世界って、本当に存在するのでしょうか?そもそも人間は構造に囚われているのです。  
 そう考えると、生まれたばかりの人間は自由です。未だ言葉も知らず、世界をありのままに見れる人間。ただ赤ちゃんを見て、自由な存在だと思いますか?  
 因みに。サルトルは「人間は自由の刑に処されている」と言いました。自由であるが故に意志の力が試される。でも構造がある以上、人間は自由たりえない。  
 近年の哲学者、マルクス・ガブリエルは「世界は存在しない」と言いました。例え構造に縛られているとしても人間は自由でいられる、と。これ何を言っているんでしょうか?
 86で考えると、8話での台詞。  
 「俺たちは選んで、決めた。あとはその通り、生き延びるだけだ。」  
 「自分が行こうと思っていたところまで、行こうと思った道を辿っていけるようになる」  これです。つまり、選択肢が限られた状態でも、選ぶ事は出来るんです。レーナはそれを否定しますが、じゃあ自由とは何でしょうか?選択肢の数が自由を決めるのでしょうか?選択肢は幾つが最低条件なのでしょうか?選択肢という位だから最低2つでしょうか。そもそも人間って、必ず死ぬんです。死が終わりならば、結論は既に決まっている。そこに選択肢はない。ならば人間は生まれた以上、絶対に自由にはなれません。
 でもね、違うんです。死ぬことが決まっていても、どう生きるかは決める事が出来るんですよ。自分の意志で選択する事ができる。  
 「死刑台に登る事が決まっていたとしても、その登り方は選択できる。」  
 それが例え構造の中にあったとしても、その構造の中で決める事が出来る。そもそも構造以外から選択する事も出来る。そして構造って、実は死ぬほどあるんです。言語が違えば構造が違う。そして言語は時代と共に変わっている。という事は構造は時間的空間的な広がりを持っています。  
 それを「温故知新」と言います。言い換えるなら、デカルトの「我思う故に我あり」なんですよね。
 勘違いしないで欲しいのは、自由は只の手段であって、目的ではない。只のスタート地点なんですよ。何の為に自由が必要なのか。それが目的なんです。だから自由って、実は手段なんです。    
 じゃあ何の為に何を選択するんでしょうか?サルトルは「人間は自由の刑に処されている」と言いました。誰かが決めた事に従うのって、実は凄く楽なんですよね。他人のせいに出来るから。合理化しやすい。でもこれって、実は人間の本質「強者になる生き物」から外れた生き方です。現代では分業が複雑化しすぎていて、自分の生活を支えているモノ全てを把握する事は出来ません。そういう構造の中で生きています。それもそれで人間の本質「分業」に従った生き方です。    
 86で考えると。やっぱり8話。  
 「俺たちは選んで、決めた。あとはその通り、生き延びるだけだ。」  
 何の為に、何を決めたんでしょうか?良く生きる為に、生き方を決めたんです。英語で言うなら「Well Being」。日本語だと「在り方」。  
 どうやって決めたんでしょうか。これも8話。アルバでも86でも嫌な奴はいた、という経験。そしてアルバでも86でも良い奴はいた、という経験。ならば自分達はどっちになりたい?  構造の中で、経験の中で、自分で考えて、決めたんです。自分で決めたから、それを貫く責任を負う。  
 これが、自由。    
 つまり自由と言うのは、責任を持つ事なんですよね。そして自由と言うのは、実はその辺に沢山転がっています。人間は生まれながらに自由なのです。    
 そういった意味では、実はアルバは自由ではない、と言えます。パノプティコンを語ったフーコーという人が居ます。簡単に言えば、監視社会。  
 為政者はどのようにして人を支配するのでしょうか?  
 昔は死によって人を支配していました。それをマキャベリズムと言います。  
 現在は生によって人を支配しています。それをパノプティコンを元にしてフーコーは語りました。  
 現代日本では「国民の命を守るのは国家の役割」として人を支配しています。要は自分の命を国家に明け渡している状態です。でもねこれ決して悪意ではなく善意なんです。死への道は善意で舗装されているんです。弱者救済のやり方が間違っているだけで。社会が便利になり過ぎて人間の本質を忘れているだけで。その善意にお金が付くから人が群がる。群がるとそれを維持する為に更にお金が必要になる。そして普遍化してしまう。弱者が弱者のままになってしまうんですよ。弱者のままの方が都合が良いのでそう合理化しちゃうんです。そもそも論、本来世の中に弱者なんて存在しないんですけど、そもそも人間の本質を忘れちゃっているのでそういう事になってしまう。    

 86で言うならば。
 アルバって自分の命を86に預けている状態なんですよね。そういう意味でパノプティコンの中にいます。塀の中という表現も秀逸ですよね。10話の動物園の姿も印象的でした。檻の中で白骨化している動物はアルバなのか86なのか。
 5話でのシンの台詞。  
 「その時アルバは戦えますか?兵役も戦費も、自分以外の誰かに押し付ける事を覚えてしまったあなた達が。」  
 ある意味、アルバが選んで決めた結果ではあります。ライデン風に言うなら「自分の命を他人に任せるという生き方を選んで、決めた。あとはその通り、生き延びるだけだ。」  
 どうでしょ?それですら他人に擦り付けて合理化しますか?セオト(3話)に言わせると。  
 「自分だけ壁の中でぬくぬく高みの見物決め込んで、それを平気な顔で享受してる今のあんたのその状態が」
 という事です。

 さて。死が終わりならば、と書きました。死は本当に終わりなんでしょうか?
 自分を構成する要素について、考えてみて下さい。
 自分を何処まで細かく出来ますか?素粒子を忘れてしまえば、人間を構成する要素って、原子になります。水を除くと、炭素原子が50%。 酸素原子が20%、水素原子が10%、窒素原子が8.5%、カルシウム原子が4%、リン原子が2.5%、カリウム原子が1%などから構成されています。じゃあこの原子ってどこから来たんでしょうか?原子の誕生は、超新星爆発と言われています。宇宙から来ているんですよね。随分と壮大な話になりました。自分の体は宇宙で構成されている。つまり。自分が死んでも原子となって何処かの何かに変わっていくんですよね。因みに輪廻転生という意味では無いですよ。原子も崩壊するのでずっと残る訳ではないですが、でも人の一生よりは長い、かな。
  こんどは逆に、どこまで広げられるか考えてみて下さい。想像出来ますか?現代の構造では、中々に難しいと思います。共同体を解体している最中の現代日本では。
 始めの方で、資本について書きました。貨幣に何で価値があるのか?「相続出来るんです。何世紀も、何世代も。」これ、自分の枠を広げている事になるんですよね。無限に残る訳ではありません。でも死は終わりではない。
 86で言うなら。  
 「生き残った奴が、行きつく所まで、全員を連れて行こう」  
 「忘れないでいてくれますか?」  
 これです。アドラーはこれを「共同体感覚」と言いました。ハラリは「虚構を構築し、共有し、分業する生き物」と言いました。人間本来持っている能力です。日本でも古来からありました。全人類の救済、自分が一番最後に救われる事を決めたのが、阿弥陀仏。

 因みに6話のカイエの話で桜を語ります。
 「わずかの間に一斉に咲いて一斉に散る」
 桜の花びらを見たらそう見えるでしょう。でもね、翌年も桜は咲きます。桜の木がある限り。

・まとめ
 ・自由とは責任を持つ事  
 ・選択肢の中で自分の在り方を自分で決める自由  
 ・阿弥陀仏  
 ・パノプティコン

■これからの時代の人権

■SDGs(持続可能な社会)

 SDGsの中で言われているのは持続可能性。つまり人権の中に未来の命に対する責任、というのが入ってきています。要は好きかってやって環境やら資源やら悪くして将来困ったらダメでしょ?という事です。これ未来に対する責任の中に他の生物に対する責任も合わせて持つという話であって、人権の中に他の生物も含まれつつある、という話です。
 それを86で考えると、今まではアルバ、86という枠で考えていましたが、そこにレギオンが含まれる、という話にもなります。
 そもそもレギオンって何でしょうか。どんな種類がいて、何を目的に何をしているんでしょうか?
 自律型戦闘機械。人間の脳を使ったレギオンもいる。人間の脳を使ったレギオンは人間なのでしょうか?そもそも論、レギオンの構造はどんな構造なんでしょうか?レギオンについて興味を持たず、殲滅するのは差別的では無いのでしょうか?というか、会話不可能な相手とどうやって和解するのでしょうか?

 この辺を理解するには環世界が参考になるかと思います。
 例えば椅子。人間から見たら座る道具。ノミから見たらエサ場。犬はどうやって他者を認識しているんでしょうか?他の犬が居なくなった事を、どうやって認識しているんでしょうか?縄張りを示すためのマーキング。匂いが消えたら、初めて他の犬が居なくなった事を知ります。構造が全然違うんです。その違う構造を知らず、一方的に自分の構造を押し付ける行為は非常に差別的で暴力的です。あたかも「未開」という言葉で西洋文明を押し付けて来た何処かの国の様に。
 10話の動物園のシーン、檻に閉じ込められている動物の表現です。閉じ込められているのは幸せなのかどうなのか?人間の価値観で判断しちゃダメなんですよね。本当は。それは凄く暴力的なんです。家猫が外に出れないのは不幸でしょうか?猫にしてみたら命におびえる事無く安心して昼寝して生きていける環境というのは望ましい可能性があります。
 人間って「主観的な生き物」で「経験のない事は理解できない」んですよ本質的に。しかしながら、生物学とかそういった学問によって理解する事は出来ます。
 20世紀は「戦争と病原菌との闘いの時代」と言われています。21世紀もそういう時代になるのかもしれません。環世界を広げる事によって異なる環世界と繋がり、未知の病原菌と接触してそれが人間に感染して、という流れ。人間は病原菌に対して、ワクチンという対応をする事で駆逐しています。ある意味絶滅させている。でもそれって、本当に良い事なのでしょうか?人間から見たら病原菌ですが、他の生物から見たらどうなんでしょうか?それを駆逐する事によって、生態系が破壊されて将来困る事は無いのでしょうか?環世界を広げない、という事によってこの先困らないようにする、という可能性もあります。そして、これ以上人口を増やさない、という事につながる可能性があります。
 現在の世界人口を維持するのにどれだけの資源が必要なのでしょうか?それを将来的に維持出来ないと分かった時、人類はどのような選択肢を選ぶのでしょうか?命の選別を行うのでしょうか?将来生れる命なのか、現在の命に対する選別なのか分かりませんが。

 人権の中に他の生物や環境が含まれた場合、今の人権の概念は恐らくガラリと変わります。

・まとめ
 ・アルバは人間か?  
 ・86は人間か?  
 ・レギオンは人間か?

■私とあなたの幸せは両立する

 SDGsなんて持ち込まなくても、実は現代は分断の歴史を歩んでいます。それは何かというと、多様性。オードリ・タン、ハラリ氏は21世紀は多様化の時代、と言っています。
 多様性って何でしょうか?金子みすゞが言う「みんな違って皆が良い」世界だと思って良いのですが、実はそれほど耳障りが良い世界、ではない。人間は「虚構を構築し、共有し、分業する生き物」であり、多様性とは虚構を個人のレベルに落とし込む行為であり、大きな物語を小さな物語に分ける行為であり、「主観でしか生きられない人間」は物語間で意思疎通が難しくなり、争いが増える、という時代です。
 でもね。冷静に考えてみると、そもそも人間って主観的な生き物で、自分の経験でしか理解できない生き物なんですよね。大きな物語といっても完全に同一のモノなんてありません。そう思い込んでいるだけで。世の中がそう出来ている保証は何処にもありません。
 良い例として、「世界公正仮説」というのがあります。
 よく考えて見て欲しいのですが、世界が公正だなんて誰も決めていないんですよ。
 努力が必ず報われるなんて、誰も決めていないんです。成功した人を見た時に「努力したから」と決めつける。失敗した人を見た時に「努力していない」「努力が足りない」と決めつける。何故なら世界は公正だから。(努力しなければ成功しないから)それが弱者批判(自業自得、因果応報、自分で蒔いた種、自己責任)という言葉に現れる。そして(批判されようがされまいが)弱者はルサンチマンをため込む。(自分が認められないのは道徳的に間違っている、社会が悪い、世間がわるい)
 だから、大きな物語が分断されたところで、本来痛くも痒くも無い筈、なんです。そもそも世界の受け止め方が間違っているんだから。

 オードリ・タンはこう言います。「みんながマイノリティである事を自覚するベキ」だと。でも、人間は大きな物語を描いて、そこに向かって協力していく生き物です。だから異なる物語の間は衝突します。今も昔もそうでした。でも人間は奪い合いの歴史に終止符を打ちました。それが株とか投資とか。目の前の現金じゃなくて、仮想的なお金を作り出したんですね。資本は増やせる状態にした。そして奪い合いの歴史に終止符を打った。土地とかそういうモノは増やせないですけど、虚構は増やせる。有限のモノを奪い合わずに、虚構を奪い合うならば、奪い合いは止められる。だから、増やせないものから増やせるモノに価値基準をシフトさせるならば、奪い合いは止められる。

 これ。似た様な話で、ヘーゲルの弁証法というのがあります。
 弁証法を簡単に言うと、正(テーゼ)と反(アンチテーゼ)が努力(アウフヘーベン)によって合(ジンテーゼ)に至る、というドイツ語で言うと何かとってもカッコよい響きがする内容である。対立した2つが「私と貴方は違う」という大前提の下、「努力」によって、「新しい価値観を生み出す」よ、という事である。合の所だけ説明すると、「対立する2つの価値観がお互い何一つ譲る事無く、新しい価値観を構築した状態」である。
 例えば、
 ・10円玉は丸い
 ・10円玉は四角い
 を両立させて見よう。「10円玉は丸い」は誰でもそうだ、納得してくれると思う。 「10円玉は四角い」は果たして本当だろうか?でも実際、四角いと思った人がいて、実はそれは誰でも見慣れた光景の中にある。自動販売機のコインの投入口。丸いだろうか?長方形だ。もし、丸いという事実だけであるならば、コインの投入口は丸かっただろう。(使いにくそうだ)と言う訳で、「10円玉は丸くて四角い」という合に至った。
 自分は、弁証法は「温故知新」に似ていると思う。「歴史は繰り返す」「歴史は進化する」を両立させる為に螺旋階段を思い浮かたようなイメージでいる。
 因みに、合に至ったらそれでおしまい、という訳では無い。次の反と努力により更なる合に達する。それを繰り返して行けば、世界はどんどん良くなっていくだろう、というのが弁償法である。
 次に「分かり合えない」というのを考えてみよう。「分かり合えない、理解出来ない者」を「他者の顔」と言った人がいる。人は主観的な生き物である。主観的であるがゆえ、本来、他者とは絶対に分かり合えない。何故なら、他者の人生は生きられないから。では何故分かり合えた気がするのか?というと「自分の中に他者が語る世界がある」からである。例えば、リンゴを食べた事が無い人に対して、いくらリンゴの味を語ったとしても伝わらない。リンゴの味が伝わるのはリンゴを食べた経験が自分の中にあるからである。先天的に盲目の人に対して、空の青さをどう伝えるのだろうか?自分に犬の気持ちが本当に分かるだろうか?アユは?虫は?木は?とかとか。そう考えていくと「人間は主観的な生き物」というか、「主観しかない生き物」である。
 弁証法という目で見て見ると、他者とは「自分が変わるきっかけ」である。養老孟司は他者との間には「バカの壁」がある、と言った。相互理解を「バカの壁」が邪魔をしている、と言った。このバカの壁を乗り越えた時、何が起こるのか?それは自分の世界が広がる、という事である。何故ならば、人間は主観的な生き物であり、自分の中にその世界が無ければ分かりようが無いから、である。つまり「他者を理解する」という事は「自分の世界を広げていく」という事である。その為にも「お互いが違う」という事を前提に、相手を理解しようと努力する。そして最終的にお互いが合に至る。
 つまり、弁証法とは「自分をより良くしていく事で、同時に世界がより良くなっていく」という事である。もう少し言うならば「より良い未来の為に変わろうと意志する事」である。その為にも、分かり合えない他者ほど、尊敬し、理解しようとする、という行為が大事である。

 つまり多様化した世界でも、お互いを尊重し、理解しようとすれば、合に至る事が出来ます、という事です。
 人間は虚構を共有する生き物です。物語が細かくなっていったとしても、それを受け入れる新しい大きな物語を共有すればよい。
 オードリ・タンはそれを「我々全員がマイノリティ」と言いました。
 自分は「私とあなたの幸せは両立する」だと思います。

■最後に

 人権とは何か?というと「そもそも人間が生まれ持っている能力をただ明文化しただけ」 のものである。生まれながらにして、初めから最後まで自由であり平等なのである。私たちが不自由や不平等と感じるのは、そういう構造の中にいるせいであって、構造が変われば感じ方も変わる。
 つまり、人間であるかどうかは他人が決める事では無く、自分が決める事なんです。
 人間でありたいかどうかも自分が決めてよい。更に言うなら、何をもって人間とするかも、自分で決めてよい。
 ただ、生まれながらにして持っている、人間としての能力というのはある。
 だから、それに従って生きる、変わらないモノを軸に生きて行くのが良いと思う。

 最後に。これからの時代の人権について。
 清水博氏の言葉で締めくくります。

自己組織的な生き方とは、互いの違いを受け入れて、互いの存在意義を高めて合いながら共に生きていくこと。違いを受け入れる時に、感情に多少の波だちが生まれても、共に向かう未来の夢がそれを「おたがいさま」と飲み込んで解消してくれるような開かれた大きな夢を共有すること

■追伸

 さて。実はここまでの中で考えられていない事があります。
 博愛と正義と高潔。

 あと。安里アサトは何故この小説を書いたのか?その背景にあるのは、一体何なのか?
 ちょっと想像してみてください。
 そこにある苦しみは一体なんなのか、と。


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