童話で考える人権 親指姫 Thumbelina

試しにやってみよう。童話で考える人権シリーズ。

人権とは、人が人であるだけで持つ普遍的な権利の事。
その中に自由と平等がある。
自由と抑圧、平等と差別。


親指姫

概要

・このお話は、おやゆび姫が生まれて、幸せになるまでのお話。
・このお話は、毒親とか周りに恵まれてない子が散々振り回されて、最後に自分で道を選択してその生活から抜け出すお話

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E6%8C%87%E5%A7%AB

http://hukumusume.com/douwa/pc/world/08/06_full.html

『親指姫』(おやゆびひめ、丁: Tommelise)は、デンマークの童話作家である、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの代表作の一つ。 1835年に発表されたアンデルセンの童話集第二集に『いたずらっ子』、『旅の道連れ』と共に収録された。『みにくいアヒルの子』などと同じく、アンデルセンの故郷、オーデンセの田園風景を背景に書かれている。

登場人物?

登場順に並べてます。

親指姫

主人公。

魔法使い

一人暮らしの女の人に大麦を渡す。

一人暮らしの女の人

一人暮らしはさみしく、かわいい子どもがほしいと願って、魔法使いから麦を買う。親指姫の親?親指姫をヒキガエルに攫われた後、どうなったのかは不明。

ヒキガエルの親子

親指姫を攫って息子の嫁にしようと画策。新居や子供部屋を作っている最中にメダカに親指姫を攫われる。

メダカ

ヒキガエルの元から親指姫を攫う。理由はヒキガエルが醜いから。

モンシロチョウ

親指姫と一緒に川流れを楽しむ。親指姫に蓮の葉と連結されてしまったため、その後は不明。

コガネムシ

親指姫が可愛いと思って攫ったが、周りの仲間から美的センスを疑われ、最終的に親指姫をリリース。

野ネズミのおばあさん

親指姫を助ける。しかしながら最終的にモグラとの結婚に前向きだった為、親指姫から見捨てられる。

モグラ

お金持ち。太陽が嫌い。花が嫌い。親指姫の歌声に惚れて結婚しようとするが、ダメになった。

ツバメ

親指姫に命を助けられる。親指姫を連れて違う所に行く。どうやら親指姫に惚れてた模様。

かっこいい王子さま

親指姫にプロポーズして結婚するのかな?


考察

パッと思いついたのは、ルッキズムと環世界。あと意志。

・ヒキガエルは息子の為に親指姫を攫う。息子はその意志に従う。

コレを指してマザコンとレッテル貼りするのは簡単だ。 但し、殆どの母親は自分の息子をマザコンにしようとする。何故なら子供に好きだと思われて、嫌な気持ちにはならないから。 そして傍から見ると、その息子は気持ち悪いマザコンに見える、という不思議。 マザコン嫌いがマザコンを製造するのだ。
そこをメダカは哀れに思って、彼女を逃がす。
何故かと言うと、ヒキガエルは醜いから、である。
醜いヒキガエルと可憐な彼女が一緒にいるのは可哀そうだから、である。
因みに、メダカは彼女の意志を確認していない。
主観的に可哀そうだから、逃がす。
偶々、彼女の意志と一致する。

・モンシロチョウと川流れを楽しむ

彼女はモンシロチョウと蓮の葉を紐で結ぶ。
これは彼女の意志だ。そしてモンシロチョウの意志は確認していない為、モンシロチョウがどう思ったのかは分からない。

・コガネムシは彼女を攫う

理由は可愛いから。
そして周りから不細工だと言われ、そんな気がしてきて、彼女を捨ててしまう。
コガネムシの意志は変わり、彼女の意志はそこにない。

・野ネズミおばあさんと暮らす

色々とありながら、野ネズミおばあさんと暮らす事になる。
おばあさんと彼女の意志はある。

・ツバメを助ける

彼女はツバメを助けるが、ツバメの意志はそこには無い。

・ツバメと別れる

ツバメは親指姫に「一緒に行きませんか?」と尋ねるが、親指姫は断る。
理由は、野ネズミおばあさんが心配だから。

・モグラと結婚させられそうになる

モグラは金持ち。でも趣味が合わないから、彼女は断ろうとするが、周りがそれを聞かない。
モグラと野ネズミおばあさんの意志はあっても、彼女の意志はない。
因みにモグラ、目が見えない。彼女の何が気に入ったかと言うと、歌声。

・ツバメと逃げる

ツバメが現れ、「ぼくといっしょに行きますか?」と尋ね、彼女はツバメと一緒に行く。

・王子様と結婚する

王子さまは「どうか、わたしのお嫁さんになってくれませんか?」と尋ね、彼女は頷く。


親指姫は、ただ単に運が良いだけである。
そして意志薄弱で、まわりが勝手に決めている。彼女の意志したのはその場からの逃亡のみ。
ツバメが連れて行った先が、彼女の意志にそぐわない場所である可能性もあった。
そもそもメダカにせよ何にせよ、彼女を逃がさなかった可能性もある。
彼女は運が良かっただけ、である。
逆に考えれば、雲が悪かったのかもしれない。
彼女が醜ければ、ヒキガエルに攫われる事は無かっただろう。
彼女が音痴ならば、モグラに好意を寄せられる事は無かっただろう。
そう読む事も出来る。

ルッキズム

もしメダカにとってヒキガエルが美であったなら、彼女は逃がされなかった。
醜は悪であり、美が善なのである。つまりヒキガエルは生まれながらに悪なのである。

コガネムシにとって、彼女が美であれば、コガネムシは彼女を手放さなかっただろう。
コガネムシにとっても、醜が悪なのである。コガネムシにとっては、彼女は生まれながらに悪なのである。

モグラは目が見えないので、彼女の美醜は関係がなかった。
しかし、彼女の歌声は美しかった。だから、好意を寄せた。
つまり、モグラにとっても美は善なのである。

簡単に言えば、ここに出てくる登場人物は全員、差別主義者である。
自分の主観で相手の美醜を評価し、善悪を付けている、という意味で。

環世界

さてその差別はどこから来るのだろうか?というと、環世界が説明しやすい、とは思う。
これについては、コガネムシとモグラが良い例だろう。

コガネムシとは形が違うので、美醜の感覚が異なる。
モグラとは視という世界が違うので、価値感が異なる。
世界が異なるのだ。全く。

因みに野ネズミおばあさんとも価値観に相違がある。
野ネズミおばあさんにとって、モグラと結婚する事はとても良い事だった。
金持ちで暮らしに困らず、豊かな今後が約束されている、という意味で。
そしてそれは彼女の価値観とは違う。彼女にとっては、自分の好きな事と離れるのが嫌だった。

つまり、自分の世界で相手の事を考え判断している、という事である。

意志

端的に言えば、彼女は与えられた場を拒否するか、受け入れるかの選択しかしていない。
さて、それはどう考えるのが良いのだろうか?

自分の人生で考えた時、自分の思い通りになった事など、どれだけあるのだろうか?
そもそも論として、人間は産まれてくる事自体、意志していない。
大概の場合、両親が意志し生れてくるだろう。少なくとも、生れてくる当の本人の意思はそこにはない。
少なくとも、自分は生まれる時に「生れたいですか?」と聞かれた記憶はない。
自分がやりたかった事、なりたかった事、どれだけ出来ただろうか?
自分の意志の外で、どれだけの事が決まり、進んで来て、そしてこれからも。

そう考えると、我々は偶々運がよかっただけ、なのかもしれない。親指姫とどれだけ違うのだろうか?
もう少し考えると、100年後には今の時代はどう見えているのだろうか?とても不自由に見えていないだろうか?
我々は、どう見えているのだろうか?

そしてもう一つ。これは親指姫の物語だから親指姫を中心に書かれている。
それ以外の登場物に焦点を当てたら、どうだろうか?
例えば、一人暮らしの女の人。
ある朝起きたら突然、親指姫が居なくなっているのだ。恐らくこのまま生き別れとなる。
それに対して、親指姫は何とも思っていない。というか、何かを思っている素振りも無い。
ヒキガエルはどうだろうか?
特に気になるのは、モンシロチョウである。
蓮の葉に結び付けられ、その後どうなったのだろうか?それよりも、モンシロチョウにだけ少しだけ気にかけている素振りがあるのはどういう事なのだろうか?
そしてこの視点は、実はツバメの視点でもある。

ツバメ

ツバメと親指姫はルッキズムも環世界も違う。
ツバメはそれをよく弁えている。
「これが、ぼくの家だよ。でも、君に住んでもらうために作ったものじゃないから、あんまりくつろげないかな。あそこにすてきな花がいっぱいあるでしょう。あの中から一つ選んでくれませんか。その上に下ろしてあげるよ。ぼくは君が幸せになるためなら、どんなことだっておしまないよ」
これがツバメの意志である。
私とあなたは違う。だから、貴方の意志を確認し、それに従う。
これは一見よさげに見える。が、メダカがそれをやっていたらどうなったろうか?
他にも、親指姫が最初にツバメの意志確認していたら、ツバメは死んでいた。問答無用に助けたから、ツバメは助かった。
これは親指姫の意志である。

最後に

徹頭徹尾、親指姫は自分の価値観の世界で生きていて、異なる世界を受け入れる事はない。
そう考えると、彼女は常に意志し、選択を繰り返してきた。そしてどんなシーンでも、彼女の思うとおりになった。
そして最終的に、花の国の王子様と結婚し幸せになる事で物語は終わる。
ただ親指姫の人生は終わらない。この先、親指姫が何を意志し選択するのかは分からないが、この物語の中で彼女は常に自由であった。
例えヒキガエルと結婚していたとしても、モグラと結婚していたとしても、彼女は自由であっただろう。

つまり、どんな状況でも、どんなに世界が違おうとも、意志はあり選択する事は出来る。
美醜は相対的である。ルッキズムが差別と呼ばれるならば、世界は差別に満ちている。
努力で何ともならない事を指してそれを差別と呼ぶなら、努力出来ない事を責めるのも差別である。
環世界が語るように、世界は多様性に満ちている。上も下もない。
私達は個々人の世界で生きている。
世界を差別で満たすのか、多様性で満たすのか、それも個人の意志である。
親指姫をどう読むのか、それも個人の意志である。
そこに良いも悪いもないし、良いも悪いもある。
良いか悪いか、決めるのは自分の意志である。
決める自由は、誰にも奪えない。


そう考えると、この物語は、親指姫の成長の記録なのかもしれない。

最後に。ツバメ、もしかしてストーカー?(台無しだけど、書かずにはいられない)

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