86 エイティシックス 第3話「死にたくない」I Don't Want to Die

86の詳しい説明はWikipediaにお任せするとして。
「人権とは何ぞや」を真正面から取り扱う異色?のアニメ。
オープニングとエンディングの曲が好きです。

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エイティシックス  

さて置き。
「キリュシュブルーテの事は残念でした」
で始まる日常ほのぼの回。
因みに。86の方々はあだ名と本名の両方を持っています。
キリュシュブルーテはあだ名の方。本名はカイエ・タニアと言います。
作中ではその辺が飛び回るので誰が誰だか混乱します。頑張りましょう。

この回は共和国のレーナ(ハンドラー・ワン)と86の方々とのほのぼの交流会です。
あと86メンバのほのぼの交流会。

被差別者と差別者の間の感覚の乖離が見えます。
なんだろ、建前と本音の建前の方のほのぼの交流会。
レーナ(差別者)は「同じ人間として」。
86側(被差別者)は「聖女ごっこのお付き合いとして」。
面白いのは86側、レーナと話す時、内輪でもあだ名の方で呼び合います。
これは建前の方で話している、という事なのかな?と。

あと飼い猫(足が白い)の名前が判明?します。
あとスカベンジャーの名前(犬)はファイド、と言います。

そしてこの回のメインテーマ。
大きな名前と小さな名前。
大きな名前は、86とかアルバ(白人)とか共和国とか人間とかハンドラーワンとか。
小さな名前は、レーナとかカイナとかシンとかファイドとか。
この辺に注目して見直すと、また違う見え方があると思います!
簡単に言うと、
差別の本質は平均を見て個を見ない
という事。
そう考えると
レーナ(被差別者)は「同じ人間として」。
86側(差別者)は「聖女ごっこのお付き合いとして」。
という見方も出来る。

現代で言うならば。
2次大戦の全体主義の反省から始まった個人主義の弊害が日本にどういう影響を与えているのか?という点について考えて見ると、何か見えてくるかも。
平たく言うと個人主義への過剰な期待から平均や構造を軽視する態度が形成され、自己を形成する背景となる構造を見ない事とした結果、自己愛パーソナル障害を発生させやすくなっているのでは?という懸念。
個を見る事と全体を見る事は相反しない
という事を理解しないと、結局は目的には辿りつかないのかな、と。
差別を辞める事は目的では無く手段でしか無いですよ。と。

ただ86、この先も見続けていくと、そんな事すらどうでも良い、と言う事に気が付きます。
「86が戦い続けている理由」って何でしょう?
エイティシックスって呼んだことはない? 呼んだことがないだけだろ! 何が国を守るのは市民の誇りで、何がそれに応えなきゃならないだよ。僕達が望んで戦ってるとでも思ってるのか? あんたたちが、閉じ込めて! 戦えって強制して! この九年何百万人も死なせてるんだろ!? それを止めもしないで、ただ毎日優しく話しかけてやればそれで人間扱いしてやれてるだなんてよく思えるな!
あと。
この回でハッキリしたのは、視聴者は共和国側(レーナ側)の視点で描かれています。
その理由として。
カイエの死はディスプレイの表示のみで表現されています。
そしてセオトのこの台詞。
何が残念? あんたにしてみればエイティシックスの一匹二匹、どう死のうが家に帰ったらすっかり忘れて夕食楽しめる程度の話だろ? しおらしい声作って、空々しいんだよ
という訳で。
「小さな名前」の意味を問いかける、人権の基本的な部分に迫った回
でした。

あと時間軸。
行ったり来たりするのが面倒なので、何処を軸としてその前後差を画面上にちゃんと書け、と思った。

追伸
だからDESTORYEDって表現、やめろや。

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